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1990年代の外国人選手

85年の、夢のような優勝は過去のものとなりました。それから続くはずだった「黄金期」は夢幻となったことに、ファンが気づくにはそう長い時間は必要なかったのです。
その兆候は、獲得する外国人選手たちにも現れていました。80年代以上の、使い捨ての時代。中には見捨てられてもやむを得ない選手もいましたが、ならばなぜそんな選手を獲得したのか。国内ドラフトも含め、選手補強がまるでなっていなかったようです。
監督のクビをすげ替えて満足する時代はとうに終わりました。根本的な改革を為さない限り、この球団の発展はないかも知れません。

リチャード・ウィッグス(Richard Wieligman)

パリッシュ、キーオの陰に隠れていた第三の外国人選手。つまりは保険である。28歳と比較的若く、アメリカでもメジャー経験はない。球団としても、外国人打者としてはタイトルホルダーであるパリッシュに多くを期待していたので、それでもよかったのだろう。タイガースにとっては、ウィッグスが出場するような事態は避けたかったろうが、得てして不幸は起こるもの。パリッシュは途中退団してしまうのだ。愕然としたが、ウィッグスはこういう時のためにいるのだ。早速ファームから引き上げて起用した。

が、そもそもその程度の期待度で獲得した選手が活躍しようはずもない。昇格したはいいが、彼のバットからは快音か聞かれなかった。ブリブリと力任せに振り回すだけ。スタメンのチャンスも何度か与えられたが、2割に満たない打率、ホームランはわずかに1本ではお払い箱もやむを得ない。
ちなみに本名はウィリグマンと発音する。ウィッグスは登録名。

マーヴェル・ウィン(Marvell Wynne)

どうも阪神というのは、長距離砲の他に、このウィンやアレンのようなアベレージヒッターまでも外国人選手に期待するフシがある。にも関わらず、この手の打者で長続きした選手はいないのだ。
ウィンもその不幸な選手のひとり。
83年にメジャーに昇格すると、8年間大リーグで活躍する。そのころももちろん中距離打者としてヒットを重ねていたわけだ。タイガース入りしたのは91年で、球団としてもトップバッターか3番あたりを期待していた。

開幕からスタメンで出場、リードオフマンであったが、いかんせん成績が伴わなかった。ホームランを期待されているわけではないから13ホーマーはともかく、打率.230、盗塁わずかに6はいただけなかった。甲子園での巨人戦でサヨナラヒットを放つなど、一瞬のきらめきのようなものはあったが、打てない記憶の方が多かった。守備走塁も平均以上ではなく、1年解雇は仕方ない。

トーマス・オマリー(Thomas O'Malley)

阪神ファンにとってもヤクルトファンにとっても忘れがたい選手のひとりだろう。三塁守備には若干不安もあったが、左打席から繰り出す強烈なラインドライブは魅力だった。
79年のドラフト16位でプロ入り。わずか3年後にはメジャーに昇格する。しかし、大リーグでは定住の地は得られず、強打の内野手を探していた阪神のオファーを受けることになった。来日当初から、彼独特の明るい性格と茶目っ気たっぷりのユーモアで、すぐにナインとも打ち解け、ファンにも親しまれた。
「ハンシンファンハ、サイコーヤ!!」の雄叫びは有名でしたね。

1年目からいきなりその打棒は炸裂、外国人打者には珍しくコンパクトなスイングで日本球界にマッチする。初年度からフル出場、3割をクリアし、21ホーマー、81打点は立派。見事にベンチやファンの期待に応えて見せた。以後もコンスタントに打ち続け、93年には首位打者のタイトルを獲得する。
にも関わらず、どういうわけか94年限りで整理されてしまう。年齢34歳だったが、まだまだやれたし不可解である。球団の言い分としては、例によって「長打力がない」。だが、本音のところは、毎年継続して好成績を残しているため、その年俸がネックになったのだろう。

そんなオマリーを他球団が見過ごすはずもない。同一リーグのスワローズがすかさず契約する。オマリーはタイガースを見返すように打ちまくり、不足と言われたホームランを31本放ってみせるなど溜飲を下げた。さらにこの年はヤクルト優勝の原動力ともなり、日本シリーズでも大活躍する。
小さめのヘルメットをかぶり、ガムを噛みつつ、打席に入るその姿は迫力があった。

そのヤクルトも2年後には退団。これは本人にメジャー復帰の希望があったからだとされている。
97年にはレンジャースと契約したが、スプリングキャンプで1軍枠から洩れてしまい、この年限りで引退している。
いずれにしても、在籍6年オール3割クリアはすごい成績。

かくり・たてお(郭李 建夫)

92年、バルセロナオリンピックでのヒーローのひとり。台湾野球を銀メダルにまで押し上げた殊勲者だった。恐らく事前契約していたものと思われるが、五輪終了後に阪神と契約、タイガース初のアジア人外国人選手となる。初年度、2年目と、そこそこの成績を残しはしたものの、期待の大きさからすると阪神にとっては不満だった。心機一転、96年にはリリーバーに転向させてみたが、防御率は相変わらず。
15セーブを記録したものの、やはり今ひとつ。リリーフエースとしては安定性がなく、守っているバックも、起用する首脳陣も不安だったろう。
97年はケガも絡み、98年には郭李を見限ったフロントがメイ、リベラを入団させたため、ますます出番が減り、その年限りで帰国した。

その後、98年シーズン後に台湾プロ野球の和信に入団し、台湾ナショナルチームにも選抜された。
さらにその年のアジア大会では再びエースとして君臨、銅メダル獲得の原動力となった。
あまりパッとした活躍はできなかったが、日本プロ野球での経験は無駄にはならなかったと見るべきだろう。引退後は指導者の道を進んでいる。

ロバート・ディアー(Robert Deer)

オマリーという左の好打者を獲得した阪神。今度は右の強打者を求めた。うまい具合にアンテナに引っかかった選手がいた。84年にメジャー昇格後、大リーグ通算226ホーマーという長打力を誇るディアーである。願ってもない大物獲得に、フロントも首脳陣も狂喜乱舞。これで優勝もイタダキと思ったかも知れない。

絶大な期待で迎えられ、4番に据えられたディアーだが、いざ打席に立たせてみると、「ん?」。当たらないのだ。バットにボールが。コントロールが良く、変化球で勝負してくる日本人投手にとまどい、ボックスでは空振りを繰り返した。まともに当たれば抜群の飛距離を残したが、緩い大きな変化球、特に落ちるタマがまるで打てない。ディアーの焦りも募ったろうが、彼を使うベンチも困った。鳴り物入りの入団だが、打率が2割にも届かないのではお話にならない。当然のように1年で解雇。
その後帰国、95年は3A暮らしだったが、翌年7月にはパドレス入りした。

スコット・クールボー(Scott Coolbaugh)

オマリーの後釜というわけである。パドレス、カーディナルスを経て阪神入りする。
なにせ、首脳陣にもナインにもファンにも、オマリーの活躍がはっきりと頭に残っている。そんな中、プレーしなければならない点は、クールボーにも同情の余地はある。だからこそ、ベンチもオープン戦、開幕当初の大不振にも目をつぶって我慢した。その甲斐あってか、オールスター以降、特に8月以降は目の覚めるような活躍ぶりで、十分に主力打者としての働きを見せた。結果的に.278の22ホーマー、77打点だが、これはほとんど夏以降の成績だといってよい。
これなら来季はもっと期待できるだろうと、首脳陣もほくそ笑んだ。

ところが翌年も、春先はまるで打てなかった。もっとも、これは去年もそうだったので、今年も我慢するのかと思いきや、「去年は例外」とばかりに早々と見切りをつけ、6月には後述のグレンとセットで解雇した。

グレン・デービス(Gllen Davis)

彼もオマリーの後釜である。クールボーかグレン、どちらかがオマリー並の働きをしてくれれば、と思っていたのだろう。ところが、クールボーは開幕から大スランプ。グレンはさほどでもなかったが、それでもオマリーには遠すぎた。打率は.256と低かったが、それでもホームランはなんとか23本、打点も77あり、クールボーと同様、慣れればもっとやれるとの考えから来季も契約する。

なのにグレンも開幕からまるでダメ。クールボーよりさらにひどく、開幕ベンチ入りからも外れてしまった。半月後には1軍復帰し、5月1日には、甲子園の横浜戦で代打サヨナラ満塁ホームランを放つなど、印象的な働きを見せた。
しかし、それも一瞬で、相変わらずの粗っぽい打撃は一向に直らなかった。業を煮やした首脳陣に、クールボーともどもアメリカへ追い返された。
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