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1960年代の外国人選手

外国人選手枠の制限が出来たのが、1952年のことでした。ここではそれ以降に来日した外国人選手たちを対象にしています。ハワイ系、日系二世選手も除外しました。
さて、名門タイガースも、時流に乗り遅れまじとして1960年度(大阪タイガース)にマイク・ソロムコを獲得したのを皮切りに幾多の外国人選手たちを加入させました。黎明期でもある60年代。外国人担当も通訳もいません。
不慣れな中、球団は悪戦苦闘しながらも、戦力になりそうな選手を捜します。
そういう背景でタイガースに入団した外国人選手たち。まさに玉石混淆というよりは、石ころの中から、それでもマシなものがあればラッキー、程度のものでした。

マイク・ソロムコ(Mike Solomko)

近代プロ野球になってタイガースが最初に獲得したのが、ソロムコ外野手だ。
筆者の年齢では当然ソロムコくらい古い選手になるとまるで知らないわけだが、この選手のプレー自体は何度か見ている。というのもソロムコ、たびたび巨人−阪神のOB戦に出場していたからだ。今でこそ、バースあたりも出ているが、当時は外国人選手でこの手のゲームに出たのは彼くらいだったのでよく憶えている。

ソロムコはアメリカでマイナー経験はあったが、しばらく現役は離れていた。というのも、沖縄・座間の米軍基地に勤務していたからだ。在日米軍基地勤務の元選手を獲得するというのが流行したこともあり、タイガースもそっちの情報からソロムコの存在を知ったのだろう。シーズン途中から早速入団させ初年度は99試合で17本塁打。そこそこの成績だが、当時24歳とまだ若かったこともあり、継続して契約した。
それに、この程度の成績でも、当時、貧打に喘いでいたタイガースにとっては救世主になっていたのかも知れない。

脚もある中距離打者タイプだったが、4試合連続本塁打することもあったりして、長打力もそれなりにあったようだ。4年間、タイガースの主軸打者として活躍したものの、1963年に東京オリオンズの若生智男投手との交換トレードで移籍した。
その後も打てない打線に泣かされ続けた阪神としては、考え物のトレードだったように思われる。
なお、現役引退後も日本に留まり、1970年に輸入調理器具の訪問販売会社イージーウェアを設立し社長におさまっている。

ジーン・バッキー(Gene Bacpue)

この選手は大当たり。今でも、阪神ファンなら誰でも知っている、球史に残る名投手である。
この大投手、実はテスト入団なのだ。それまでハワイの3A、アイランダースに所属していたが、ハワイ出身の選手が日本で多数活躍したことにも刺激を受け、よりよい条件の日本でプレーすることを望み、阪神のテストを受けた。

コントロールはイマイチだが、ボールは速いし力もある。取りあえず獲っとけ、と判断したのがタイガースにとっては幸いした。
入団が決まった後、登録名をつけるにあたり、当時の藤本定義監督が「バックウェ?(そう発音するらしい) そんな怪獣みたいな名前じゃあかん。バッキーにせい」と言ったというエピソードが残っている。
由来は、戦前に活躍したバッキー・ハリスから来ているようだ。

初年度は、ファームと1軍控えを往復する、いわゆるエレベーター選手。8試合に登板し3敗したのみ。外国人選手ということもあって、切られても不思議ではなかったが、まだ25歳と若かったこともあり、残留させることになった。
もともと日本で育てるという意味合いもあったのだろう。そして2年目、首脳陣の期待に応え、規定投球回数をクリアし8勝を挙げる。防御率2.49も上出来だった。

大化けしたのが3年目。実に29勝(9敗)を挙げて防御率も1.89。最多勝、最優秀防御率、加えて沢村賞も獲得し、村山と並ぶエースに成長した。圧巻だったのはその翌年。
6月28日に甲子園で行われた巨人戦でノーヒットノーランを記録する。その後も、キレの良いシュートを武器に、特に観客の入る巨人戦で闘志を燃やして好投したため、多くの阪神ファンが溜飲を下げた。

2ケタ勝っても同じくらい負けているのは、何度も言っているように、当時の阪神はまったく打てなかったので打線の援護がなく僅差で破れるケースが多かったためだ。入団1年目と最後の年を除けば、防御率はすべて2点台であり、66年以外は2.50以下なのだから、筆者の言っていることもわかっていただけると思う。

順風満帆に見えたバッキーの野球生活が暗転したのは1968年のこと。この年の9月18日、甲子園での巨人戦に先発していたバッキーは、初回に先制点を許した上に4回には一気に4点を奪われた。冷静さを失っていたのかも知れない。
バッキーは打席の王に、初球は顔の近く、2球目は膝に向けてストレートを放った。今なら危険球扱いだろう。これには温厚な王も怒った。マウンドに歩み寄ると、バッキーも言い返す。あっという間に両軍選手がマウンド付近に入り乱れることになった。中でも激しくやり合ったのがバッキーと巨人・荒川コーチ。

バッキーの繰り出す右ストレートが、見事に荒川コーチの額にヒットする。両者とも、暴力行為で退場になったが、それだけでは済まなかった。荒川コーチは額の裂傷。そしてバッキーは、右手親指を複雑骨折してしまっていたのである。当然、そのシーズンはそれ以上投げられず、シーズンオフにはあっさりとトレードされた。移籍先の近鉄では精彩を欠く投球しか出来ていないところを見ると、あの骨折は致命的だったのだろう。

引退後は1984年まで故郷のラファイエット高校で教鞭を執り、その後は念願の牧場を経営している。
オールスターにも5度選ばれ、ファンにも愛された好漢であった。

マーク・ブラウン(Mark Brownstein)

本名はブラウンスタインだが、長すぎるということだろうか、登録名はブラウンである。
アメリカでのプロ経験はないアマチュア選手。立場は大投手バッキーと同じで、年齢も21歳と若かったが、ハワイ・リーグとはいえプロだったバッキーとは実力も雲泥だった。ただ、なにしろ若いしガタイもしっかりしている。うまく育てれば化けるのでは、という期待もあった。実際、開幕では2軍だったが6月には1軍昇格した。
張り切ったのはいいが、やりすぎで右肩を故障。治療するも長引き、それならということで、シーズン終盤には野手に転向させるも失敗。結局、投手としても野手としても1軍で成績を残すことは出来なかった。
しかし、まだ若いということで獲得したのであれば、多少ケガしようが長い目で見られなかったのかな、とという疑問は残る。素質的にまるでダメだったのであれば、なぜテストに合格したのか不明。

余談だが、この手の、1軍成績が残っていない、しかも1年しかいなかった選手のデータというのはほとんど見つからない。実際、森岡浩さんの「プロ野球人名辞典」でも無視されている。このほど出た季刊ベースボール(2002夏号)は、折しも外国人選手大鑑だったが、さすがベースボール・マガジン社、しっかりこの選手も拾っている(写真まで見つけているのは見事)。

フランク・ヤシック(Frank Jaciuk)

1953年に入団したタイガース史上に残る名サード・三宅秀史。ショートの吉田義男を組んだ三遊間は文字通り鉄壁と謳われた。しかし三宅がまだ27歳の62年、試合前の練習で顔面にボールを当てて眼底出血の重傷を負ってしまう。さあ困った。
この頃のタイガースは、投手でバッキー、外野手でソロムコと、好選手をゲットしていた。ならば、三宅の穴も外国人で…と考えただろうことは想像に難くない。そして見つけだしたのがヤシックというわけだ。

アメリカでマイナー経験があったらしいが、私の資料では不明だった。来日したのは開幕後で、入団発表の席では自信満々で40ホーマーを公約したという。ところがこれがまったくの見かけ倒し。
守備も悪かったが、これは三宅と比較する方がおかしい。打つ方を期待したのだから、と思ったが、まるで打てなかった。40ホーマーどころか僅か2ホーマー、打率も2割に満たず、4番サードどころかスタメンから外れる日も多くなった。
これなら病み上がりの三宅の方がマシ、ということで、あっさり1年でクビ。
その三宅も、目の怪我が響き、とうとう全盛時のような活躍は出来なかった。

ピーター・バーンサイド(Peter Burnside)

元大リーガーである。メッツにジャイアンツ、タイガースやセネタースを渡り歩き、阪神の要請を受けて来日したのは34歳の時だった。江夏入団前の阪神で、貴重な先発左腕として活躍した。
在籍2年で10勝、負けが22もあるので、そうは戦力になっていないように見えるかも知れないが、これは何度も言うように、ダメ虎が打てなくて惜敗したゲームが多かったためのようである。

速球とキレの良いカーブを武器に打者を翻弄、四球が少ないのも使いやすかった。一時は、藤本監督も、「バーンサイドを軸に、村山、バッキーを回していく」と、ローテーションの中心に扱ったこともあった。
タイガースにとっても惜しかったろうが、年齢的なこともあり、2年で解雇された。

レノ・ベルトイヤ(Reno Bertoia)

前年(1963)、ヤシックで大失敗した阪神だが、故障上がりの三宅も精彩を欠き、サードの穴が目立ってきた。結局、また外国人に頼らざるを得ない。フロントが必死に探すと、まだ29歳と若く、メジャーにいたおあつらえ向きの三塁手が見つかった。セネタースにツインズ、アスレチックス、タイガースに在籍したベルトイヤである。

今度はヤシックと違い、現役の大リーガーだ。バーンサイドの力を見ると、老いたりとはいえさすが大リーグという思いもあったため、まだ若く現役だったベルトイヤには大きな期待が集まった。バッキー、バーンサイド、ベルトイヤの3人で3Bトリオという名称も生まれ、ファンも注目した。が。
これがサッパリなのだ。まったく打てずにベンチもガッカリ。ホームランわずかに1本、打率.175ではメジャーに泥を塗るというものだ。球団も愛想を尽かし、4月25日に解雇。しかし一ヶ月も保たないとは、あまりに短い。確かに打ててないが、まだ一ヶ月だ。ちょっと見切りが早すぎないか、阪神?

チコ・フェルナンデス(Humberto Fernandez)

ヤシック、ベルトイヤで強烈に失敗したにも関わらず、タイガースは懲りずに外国人サード獲得に奔走する。見つけたのは、ドジャース、フィリーズ、タイガースにメッツと在籍した32歳のフェルナンデスだ。
主にショートを守っていたが、サードもやったことはあるし、本人も「問題ない」という。これでようやく穴が埋まると思った首脳陣は何人いただろうか?

キャンプから来日したのは良いが、ロクに練習しない。まあ、それがメジャー流かと大目に見たが、オープン戦で化けの皮が剥がれた。
主砲として期待し、4番に据えたのに凡打の山。「ン?」。藤本監督の目が点になる。バランスの悪いスイングを繰り返し、おまけに内角はサッパリ打てない。目が慣れていないのか、はたまた日本の投手にとまどっているのか、と様子を見るもまるでダメ。
シーズンに入っても全然打てず、とうとうスタメン落ち。すると今度はそのことに不満を持ち、滞在していたホテルから雲隠れ。球団からの連絡を絶ってしまった。やっと出てきたと思ったら、今度はマスコミに対して首脳陣批判を行う有り様。
それでこの成績では救いようもなく、当然1年でクビ。というか、よく1年も保ったな。ベルトイヤは一ヶ月だったのに。

ウィリー・カークランド(Willie Kirkland)

もういい。サードは諦めた。阪神首脳はそう思ったのではないだろうか。今度は外野でいい。
4年間、主軸として頑張ってくれたソロムコをトレードで出し、ただでさえ弱い打線がいっそう力不足になっている。三宅の代わりのサードで打線強化も、と思ったのに3人続けて大外れだ。
どうせなら足りない左打者がいい、もちろんメジャーを希望するが、それもちゃんと実績を残した選手が欲しい。

そんなわがままな希望が、なんと叶ってしまう。引っかかったのはカークランドという黒人選手だった。
ジャイアンツ、セネタース、オリオールズ、インディアンスに在籍し、1959〜1962年の4年連続して20ホーマー以上を記録した実力者だ。巨人の王、長嶋以上だと、阪神サイドが期待したのはムリもない。そして彼はその期待に見事応えた。

入団1年目から4番に座ると、その豪快なバッティングは本塁打を連発した。ツボにはまると、あっというまにライトスタンドで放り込むパワーに、セントラルの投手たちは戦慄した。
メジャーのレギュラーらしく、ファン・サービスも満点でウケも良かった。カークランド自身もファンが多いと燃えるようで、特に巨人戦に強かった。「リラックスするため」に爪楊枝もいつもくわえていたが、当時、人気のあった時代劇「木枯らし紋次郎」とダブらせたファンから「モンジロー」と呼ばれて悦に入っていた。
他にも、縁起担ぎで常にユニフォームのポケットにウサギの脚(これはアメリカ人の幸運のアイテムなんだそうですね)を入れていたのも印象的だった。

ただ、長打力はあったのだが、なにしろ強引に引っ張る打法でブリブリ振り回したため、必然的に三振が多く、打率もなかなか上がらなかった。そして、その長打力の割には打点も少なく、決して勝負強い打者ではなかった。
だが、それにしてもカークランドの加入は、タイガースにとって極めて大きく、このチームにしては珍しく6年という長期に渡って在籍した。最後も、解雇ではなく任意引退である。現役最後のシーズンは38歳だったのだから完全燃焼だろう。
引退後、帰国したカークランドはGMに勤め、車両整備の仕事に就いた。

ジョー・ゲインズ(Joe Gaines)

よぉし、やった! カークランドは大当たりだったではないか! 見ろ、やっぱり内野はメジャーでも足りないからロクなのが来ないけど、外野ならOKなんだよ! …と、阪神フロントが単純に考えたかどうかは知らないが、カークランドの成功に気を良くしていたのは確かだろう。ならば、もうひとり外野手を、それも今度は右打者を獲ろう、ということになった。
目星をつけたのは、レッズ、オリオールズ、アストロズに在籍したというゲインズである。33歳。

入団時の記者会見が奮っている。「ヒット、ホームランをたくさん打つ。それはもちろんだが、盗塁王も狙うつもりだ」。
おお、こりゃ打つだけじゃない、脚も速い万能選手に違いない。球団もファンも期待した。…けど、騙された。

なんとかスタメンに名を連ねていたのも6月初めまで。我慢に我慢を重ねてきた首脳陣も、とうとう手を入れてレギュラーから外した。その後もパッとした活躍は出来ず、控えのまま1年で退団。

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