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球団の歴史

1930年代

現在の阪神タイガースへとつながる、大阪タイガースが1935年12月10日設立される。翌1936年プロ野球リーグが発足。景浦將、松木謙治郎、藤村富美男など個性的ながらも名選手を揃えていた阪神は、初代年間王者および2連覇を達成する。1930年代の阪神は、巨人を圧倒しプロ野球創設期に強烈な存在感を築いていった。

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1940年代

発足間もない日本プロ野球界の中で、大阪タイガースは球界を代表する球団であった。しかし、球団も球界全体も歴史の波には抗えず、多くの名選手が戦争に応召され、そして多くが戦死していった。興行自体が存続の危機の中で、プロ野球界は1944年まで実施された。終戦明けて1946年から、すぐにプロ野球は復活した。まだ、甲子園球場も接収されたままであり、多くの選手が散り、各球団とも戦力がなかなか揃わない環境であった。しかし、野球みる社会の視点も大きく変わっていた。

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1950年代

最悪の状態で1950年代をスタートしたが、名将松木の元、数年で優勝争いするまでに甦っていった。ところが今度は難波事件の責任をとるかたちで、1954年、その松木が辞めていった。球団は次期監督の扱いをめぐり、藤村達古参の選手の意見を無視し、反発をまねくするなどし失敗する。仕方なく藤村を兼任監督にするも、1956年オフ、今度は藤村が選手の大反乱にあう。1950年代のタイガースは、舞台裏がまるで落ち着かない状況が延々と続いていった。

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1960年代

フランチャイズ制度の正式導入に伴い保護地域が兵庫県となったことから、1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更。この期間に2度のリーグ優勝したが、いずれも日本シリーズ敗退。

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1970年代

1970年、村山が選手兼任監督に就任。
江夏豊と田淵幸一の「黄金のバッテリー」や、吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、当時は王貞治や長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えており、優勝には手が届かなかった。

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1980年代

1985年に後にも先にも唯一の日本一を達成しましたが、その年以降は主砲の掛布の引退に繋がってしまう骨折等々があり、結局掛布は引退。そして最強の助っ人の呼び声高いバースが去ってしまい、球団史上初の日本一から一転、いわゆる暗黒時代に突入した阪神タイガース。失意に塗れた90年代に突入です。

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1990年代

完全に暗黒時代に突入。92年に優勝争いに参戦したが、結局ヤクルトに競り負け2位フィニッシュ。 翌年から10年に渡ってBクラスに低迷してしまう。99年には野村克也が監督に就任し、後に野村が種を撒き星野が花を咲かせたと言われた、2003年への助走の年が始まり、21世紀に入っていきました。

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2000年代

2000・01年、実績のある野村監督を以てしても、最下位からの脱却は果たせなかった。夫人の脱税事件による逮捕も相まって野村が退任すると、後任には闘将・星野仙一が就いた。7年続いた巨人戦の負け越しは03年にストップし、この10年間は128勝121敗6分。2リーグ分裂後のディケイド別対戦成績では、史上初の巨人に勝ち越したチームとなった。また、星野の後任に岡田が就任した2005年にもリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは歴史的な惨敗を喫してしまう。

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2010年代

2010年にはチーム打率290、3割打者と90打点以上が5人という猛打を見せるが優勝には手が届かず。その原因として肝心な試合での勝負弱さが挙げられる。Aクラスに入るので、クライマックスシリーズ進出を果たすが、ポストシーズン勝てないというサイクルを繰り返すが、2014年にその勝負弱さを克服し、宿敵巨人を破って日本シリーズに進出を果たす。

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