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1980年代の外国人選手【3】

カオスでした。もうとにかくとっかえひっかえ。ちょっとケガをした、使えないとなればすぐにクビ。そして新たに獲得する。使い捨ての時代だったのです。タイガースのために来日した外国人選手たちにとっては受難の時代でした。そんな中、神様がやってきました。その神様は、長年バカにされ続けてきた虎党に救いの手をさしのべたのです。彼の名は…。

ルパート・ジョーンズ(Ruppert Jones)

実に不幸な選手と言わざるを得まい。なにしろ、かのバースの後釜として入団してきたのだ。
生半可な成績じゃ、ファンもフロントも許してくれない。3割30本など当たり前、というのが実感だったろう。このジョーンズ、左打ちの黒人一塁手で、マリナーズを皮切りに6球団を渡り歩いた。バース問題が悪化し、解雇やむなしとした時に、転ばぬ先の杖で交渉したのが彼である。
故人の古谷代表が、バースと交渉するウラでジョーンズとの仮契約を結んでいる。結果としてバース退団となったので、これは無駄にならずに済んだ。

周囲の厳しい目を感じていたかどうかはわからないが、このジョーンズ、どうにも粗っぽくていけない。
それこそ毎試合のように三振を繰り返し、それでもブリブリ振り回すスタイルは改めなかった。こういう打者は、コントロールの良い日本人投手にとってはお得意さまで、いいようにあしらわれた。結局、前任者バースの成績には遠く及ばず、1年で退団する。

なお、このジョーンズ、ひょんなことで日本球界に名を残している。今でこそ珍しくはなくなった背番号ゼロだが、ジョーンズは日本初の背番号00をつけている。

リチャード・ゲイル(Richard Gale)

85年の優勝は、猛虎打線におんぶにだっこで達成したものだが、投手陣でも頑張った選手はいた。
この年入団したゲイルはローテーションの中心として投げ抜いた。このゲイル、メジャーでも立派な成績を残している。78年に3Aからロイヤルズに昇格すると、いきなり14勝を挙げてエース格となる。
2年後には優勝に貢献、ワールド・シリーズでも先発している。が、その後は鳴かず飛ばず、1年ごとにチームを移ることになった。そんな中、タイガースからオファーがあり入団する。31歳の時だ。

198センチの長身から投げ下ろす速球には威力があり、大きなスライダーもよく切れた。
ただ、好不調の波がやや激しく、打たれる時はあっさり降板し、かと思うと立ち上がりからものすごい投球を展開しシャットアウト、なんてこともよくあった。

初年度から先発の中心で活躍、チーム最多の13勝を挙げて、阪神優勝に大きく貢献した。日本シリーズでも2勝をあげるなど、アメリカのWシリーズで活躍できなかった鬱憤を晴らした。
ただ、活躍したのはその1年のみ。翌年は、キャンプの頃から「オレがエースなのだから当然開幕に投げる」などと発言するなど、やや思い上がったところが多かった。フタを開ければ5勝10敗の体たらくで、あっさりこの年で解雇となる。
85年も13勝したものの、防御率は4.30と悪く、どうみても打線の助けで勝ったと判断せざるを得ない。事実、翌86年も似たような防御率だが、85年ほど打線が奮わなかったためか大負けしている。
帰国後はレッドソックスや3Aでコーチを務めている。

マット・キーオ(Matt Keough)

ゲイルは1年のみの活躍だったが、それでも慢性投手不足のタイガースにとっては印象深かった。
またどこかに拾い物の好投手がいるのではないか。そういうことで連れて来られたのがキーオだ。
77年に大リーグ昇格すると、80〜82年まで3年続けて2ケタ勝利を記録する。83年途中でトレードされ、以後3球団を転々。87年にタイガースと契約する。

85年の優勝以降、一転して低迷した阪神において3年連続2ケタ勝利は立派。エース不在の投手陣の中、ひとりで屋台骨を支えた感もある。なるほど負け数も多いが、これはダメ虎打線の援護がなかったためである。初年度はともかく、2年目、3年目の防御率は2点台である。
ゲイルよりははるかに安定しており、首脳陣も安心してマウンドに送れた投手だった。特筆すべきはコントロールの良さで、四球はかなり少なかった。

外国人砂漠の阪神、それも投手で4年も在籍したのは大したものだが、実はマットの父親も日本でプレーした選手なのである。親父の方は68年の1年間のみ南海ホークスに在籍した。
打率は低かったが、17本塁打は、その年のホークスで野村に次ぐ成績だった。恐らく、来日する前に父親のアドバイスもいろいろあったのだろう。日本では極めて珍しい外国人選手の親子鷹だ。

セシル・フィルダー(Cecil Fielder)

バース、ジョーンズの後を受けて入団したフィルダー。85年にメジャー昇格、ブルージェイズ入りしたが、毎年のようにトレードされ5球団を転々。チャンスもロクに与えられない環境に嫌気のさしていたフィルダーは、阪神からの話に飛びついた。
188センチ101キロ。ガッチリした体格の黒人選手で、そのパワーが期待された。が、フタを開けてビックリ。オープン戦での成績は、なんと14打席で10三振。これにはフロントも首脳陣も、怒る前に失望した。早速、フィルダーの後釜探しが始まる。
クビも間近だった3月中旬のオープン戦。姫路で行われたオリックス戦で、彼は2打席連続のホームランを放って見せた。なるほど、パワーは見かけ倒しでもなかったようだ。もしかしたら、これから日本投手に慣れるかも知れないし、もうちょっと様子を見るか、ということになる。結果的にはこれが大正解。

オープン戦で、日本投手の変化球の多さとコントロールの良さを知ったフィルダーは戦術を修正。
阪神の期待するホームランよりも、鋭く振ってライナーを打つことにしたらしい。これが実って、大活躍となる。フィルダー自身は一発狙いじゃないとしても、あの腕っ節でスイングし、まともにボールを打てば、日本の狭い球場ならラクにホームランである。チャンスに好打し、面白いようにスタンドへ叩き込んだ。
この成功は、フィルダー自身のやる気の問題でもあった。自分の力を信じていたフィルダーにとって、5年間のメジャー生活は鬱屈したものだった。ところが日本へ来たら、毎試合出場できる。ナインたちもいいやつばかりだ。充実していたのである。

フィルダーは、打率.302、ホームラン38本という素晴らしい成績を残した。試合数が少ないのは、9月のゲームで、三振したことに怒り狂い、思わずグラウンドに叩きつけたバットが跳ね返り、右手小指に直撃、骨折という、なんとも情けない故障をしたためである。
すっかり気を良くしたフィルダーは、当然、来季もタイガースでプレーすることを希望していた。無論、この成績なら阪神としても解雇する理由はない…はずだった。ところがフィルダーの耳に気になる情報が入る。スワローズを自由契約になった本塁打王のパリッシュがタイガースへ移籍するというのだ。
パリッシュはファーストである。ならフィルダーはどうなる? 不安に駆られたフィルダーは、帰国後、代理人を通じてメジャー球団と交渉、阪神を退団してデトロイトタイガースへ入団することになる。先手をうったというわけだ。
まあ、タイガースサイドはフィルダーが退団したからパリッシュを入れたと言っているが、それならなぜフィルダーがそのまえにパリッシュ入団を知っていたのか不明である。いずれにせよ、この選択は大失敗だった。パリッシュは入団したその年の途中で退団。一方、フィルダーは…みなさんご存じの通りの活躍。
デトロイト1年目の開幕戦から4番(!)に座ったフィルダーは51ホーマー、132打点で2冠。翌年も44ホーマー、133打点で2年連続2冠である。ちなみにその翌年も打点王を獲っている。
どう考えても選択ミス。年齢的なことを考えても、パリッシュよりはフィルダーであろう。あのまま彼を残していれば、バースに続いて三冠王を獲れた可能性は高かったはずである。 返す返すももったいない。タイガース・フロントに先見の明がないのは、ドラフトやFAの度重なる失敗でわかってはいるが、中でもこの失敗は本当に大きかった。
12・3

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