兵庫県内のホテルの一室。プロ20年目、41歳のベテラン捕手が大きな決断を自ら下した。
阪神・矢野燿大捕手が現役引退を決意。この日球団フロントと話し合いを持ち、3日に発表ということで決定した。「去年働けなくて、今年も働けなくて悩んだ。心技体が全部あって初めてできる仕事。すべての面で1軍の戦力になることはできなくなってきた」。
引退会見で矢野は何度も目頭を押さえながら、ユニホームを脱ぐ理由を口にした。09年は30試合、10年にいたってはわずか8試合。98年、中日から阪神へ移籍してからの08年までの11年で100試合以上出場したのが10年、うちベストナインに3度、ゴールデングラブ賞に2度選ばれた捕手が、この出場数では納得できるはずもなかった。
右ひじが痛くてたまらなかった。引退を決意した頃には、投手へまともに返球できなかった。自ら申し出て1軍登録を抹消されたのが6月8日。以来、2軍の本拠地鳴尾浜でリハビリに励んできた。「もう一度、甲子園でマスクをかぶりたい」。その一心で治療を続けてきたが、症状は一進一退。その間にもチームは大リーグ、シアトル・マリナーズから日本へ戻ってきた城島健司捕手を正捕手に、楽天から移籍の藤井彰人捕手や若手の成長で矢野の居場所はなくなりつつあった。もちろん、そのキャリアを惜しみ「矢野がいてくれればなぁ」というシーンはシーズン中何度もあったが、投げられないのでは、戦力にならない。気持ちはあっても、故障した選手を1軍に置いておくほど、プロは甘くはない。
悔しさの半面、自分で自分を褒められる20年でもあった。「まさかこの年までプロの世界にいられるとは思ってもみなかった」と矢野。そこにはいつも困難があったからこそ、続けられた20年だった。
東北福祉大から91年にドラフト2位で中日入り。そこには中村武志という不動のレギュラー捕手がいた。1軍にいても出番がない、ベンチのイスに張り付いたままの“カマボコ”で20代が終わりそうになった、97年オフに阪神へのトレードが決まった。
当時の星野仙一監督に「捨てられた」という複雑な思いを抱えての移籍だった。しかし、ここで道が開けた、移籍後からレギュラー捕手となり、99年にはヤクルトを4度優勝させた野村克也監督が就任。「アンテナを常に張っておけ」の言葉と星野監督を見返したいの思いで成長し続けた。これが02年に星野監督が阪神を率いることになった際に生きた。
阪神18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献し、岡田彰布監督時代の05年にも優勝した。シリーズでダイエーに敗れた悔しさが、05年の優勝につながった。05年の日本シリーズはロッテに4連敗。シリーズ敢闘賞に選ばれた矢野だったが、こんなに嬉しくない表彰はなかった。
阪神で3度目の優勝を目指したが、それはかなわなかった。9月30日の引退試合。チームは横浜にサヨナラ負けを喫し、自力優勝が消滅。試合展開上、出場機会のないまま矢野は最後の公式戦を終えた。リリーフに失敗した、藤川球児投手がボロボロ涙を流す中で、矢野は守護神を抱き寄せてねぎらいの言葉をかけた。「お前のおかげで、いっぱいええ思いをさせてもらったよ」。
矢野の阪神での捕手としての出場1281試合は球団記録。捕手としてのサヨナラ打10本も球団記録である。