初球、内角高め153キロ、空振り。2球目、内角高め151キロ、空振り。3球目、外角やや高め152キロ、ファウル。4球目、真ん中高め151キロ、空振り三振。
「僕も数々のボールを受けてきたけど、凄いボールに凄いスイングやった。参ったよ」。球界一とまでいわれた名キャッチャー、ヤクルト・古田敦也捕手の口調は興奮していた。すべて150キロを超える直球を4球投げた阪神の絶対的守護神・藤川球児投手、それをすべてフルスイングしたプロ21年目のスラッガー、オリックス・清原和博内野手。初のオールスターゲーム開催となったサンマリン宮崎に集まった2万9777人の観衆は、プロとプロとの力勝負にお祭り気分を忘れて、体の震えすら覚えた。
8回二死。全パのロッテ、ボビー・バレンタイン監督は見せ場を作った。「ピンチヒッター・清原」。
右足の故障で、球宴自体出場が危ぶまれた中で、セNO.1ストッパーとの真剣勝負に清原は燃えていた。「150キロの真っ直ぐ投げてこいや。打ち返したる」。5月27日の交流戦。“球界最速男”横浜のマーク・クルーン投手の156キロのストレートをたたき、逆転サヨナラ満塁弾を放った清原は、まだ速い球についていく自信は十分あった。素振りを3回すると、やや口元に笑みをたたえながら右打席に入った。
もうすぐ40歳になろうとする清原。ひと周りも年下の藤川だったが、この瞬間を楽しみに待っていた。「周りの歓声、ベンチのムード…。マウンドで感極まりそうになった。子どものころからの憧れの人に立ち向かっていけることを思うと感動した」。
藤川がこの日を一日千秋の思いで待っていたのにはわけがあった。その1年前、05年4月21日の巨人-阪神6回戦(東京ドーム)。10-2と阪神が大きくリードしていた7回二死満塁で藤川は清原と対戦した。
通算500号本塁打にあと1本と迫っていた清原だが、カウント2-3からのフォークで空振り三振。清原は試合後に言った。
「あの点差でフォーク?ちゃうやろ。ケツの穴小さいなあ。チン○コついとんのかいな」。
捕手のサインとはいえ、ストレート勝負できなかった悔しさが藤川の中から沸々とわき上がった。「あれから真っ直ぐに磨きをかけるようになった。清原さんにむ育ててもらった。あの時を思い出して投げました」。
三振に仕留めた後、帽子を取って少年のようにペコリと頭を下げた背番号22。それが“師匠”清原に対する、お礼の表現だった。
清原の球宴での三振数は自己記録を更新し、40個に達した。その内訳をみるとわずか3個だけが見逃しで、37個が空振りだ。94年の第2戦で中日・山本昌投手から見逃しの三振を喫して以来、23個連続で空振り三振だった。
両リーグ最多の約80万票を集めて選出されたことに「この舞台を与えてくれたファンに感謝したい」と述べた清原。真っ向直球勝負挑んだ藤川に対しては「凄かった。ホームラン狙ったけどダメやったね。今まで見たことのない凄いストレートが来た。参りました。けど悔しいわ。また、勝負したい?フフッ、まあ、頑張りますわ」。
成長を認めた上で闘志は健在。野球小僧・清原は、この気持ちが続く限り、ユニホームを脱ぎはしない。