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2001年 松井キラー出現その名は?


阪神が21年ぶりのリーグ優勝を果たした1985年オフのドラフトで1位指名を受け、入団した遠山さんは1年目、高卒ルーキーながら8勝(5敗)をあげます。「将来のエース」と騒がれましたが、翌年からは鳴かず飛ばずで、91年にはロッテにトレードされます。

ロッテでは主に中継ぎを務めましたがパッとせず、95年には自らの意志でバッターに転向しました。95、96年の2年間で16打数3安打、打率1割8分8厘ですから、転向が成功だったとは言えません。

97年のオフにはロッテを解雇され、古巣・阪神の入団テストを受け、合格しました。遠山さんが本領を発揮し始めたのは、野村克也さんが監督に就任した99年からです。この年、遠山さんは63試合に登板し、2勝1敗1セーブ、防御率2.09という好成績を残します。翌00年も54試合に登板し、2勝3セーブ、防御率2.55と、ほぼ前年並みの成績をおさめました。

印象に残っているのは巨人・松井秀喜選手への強気の投球です。インコースをこれでもかと言わんばかりに突き、99年は13打数無安打と完璧に抑え込みました。松井さんは「(遠山さんの)顔を見るのも嫌だ」と言ったそうです。

この頃、遠山さんは野村さんから「(左打者の)インコースを攻められないか」と要請され、ややサイド気味に腕を振っていました。内角へのシュートで腰を引かせ、最後はスライダーで料理するというパターンでした。状況によっては、逆の攻め方をすることもありました。

サウスポーが左の強打者に対し、内角を徹底して攻めるというのはピッチングの常道です。特にワンポイントリリーフの場合、“1人1殺”が求められるわけですから、ミスは許されません。

何より相手は巨人の主砲であり、球界の宝です。「手許が狂ってぶつけでもしたら……」という不安は誰にでもあります。遠山さんも、最初のうちはそうでした。

そうした不安を見てとったのか、ある日、野村さんは遠山さんを呼び、こう諭したそうです。

「オマエ、給料いくらもろうとる。せいぜい数百万やろう。松井は億円プレーヤーや。格下が格上にぶつけたところで、どうってことない。松井の給料には(当てられる分も)入っとるんや」

遠山さん、その一言で気持ちがスッと楽になったそうです。「考えてみたら、せやな。オレはテストで拾われた身。自分の仕事ができんかったらクビになる。松井とは格も立場も違う。いったい、何をビクビクせないかんのや」と。

ブルペンでは素晴らしいボールを投げるのに、マウンドに上がった途端、“ヘビににらまれたカエル”状態になるサウスポーを何人も知っています。一皮むけるには、何が必要なのでしょう。

遠山さんは言います。「そんなピッチャーに“あそこに投げろ”“ここに投げろ”と言ったところで土台、無理な話。“せやな!”とピッチャーが素直に納得できる一言が大事なんですよ。もし野村監督の一言がなかったら、“松井キラー”はもちろん、僕の復活もなかったと思います」。遠山さんの話を聞いていて「せやな!」と思いました。

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